写真は平安神宮です。昨年は真夏と初冬にまち歩きを行ない大変疲れましたが、懲りもせずに、またまた京都に出かけてきました。v(^^;。。
土曜日は、午前8時半過ぎにJR関西線蟹江駅を出発、名古屋から新幹線を利用して京都に向かいました。蟹江からは、鉄道でも高速道路を利用しても約1時間半ほどで京都に到着します。とても交通が便利なので、出掛ける先についつい京都を選んでしまいます。
名古屋からは約50分ほどで京都に到着しました。駅構内から外に出るとお馴染の京都タワーが見えてきました。ここでタクシーに乗車し、鴨川沿いの川端通りを北上していきました。
一番目の目的地は、写真の黒谷金戒光明寺です。承安5年(1175)比叡山の修行を終えた法然上人が、この地に浄土宗最初の念仏道場を開き、浄土宗七大本山の一つとして有名な古刹です。幕末期に京都守護職を勤めた会津松平家の本陣が置かれたことでも有名ですね。
石段を登ると大きな山門が聳え立っています。寺でいただいた資料によれば、楼上正面には後小松上皇筆による「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ法然上人の開かれた浄土教の教えがここから始まったことが示されているとのことです。
そこから更に石段と登ると御影堂(大殿)が見えてきました。堂内に入り参観を済ませました。堂内には、正面に宗祖法然上人七十五歳の御影(坐像)が奉安され、右脇には吉備観音立像、左脇には中山文殊騎座像が安置されていました。文殊像は、運慶作とされ、日本三文殊の一つとして尊崇されてきたとのことです。
参観を済ませて境内を散策することにしました。思ったよりも大きな寺院ですが、観光地にある古刹としては拍子抜けするほど周りはヒッソリとした雰囲気でしたよ。
寺内の方丈北庭や紫雲の庭は紅葉の名所なので、晩秋から初冬にかけては、とても賑わうようですが、その時期以外は、一般公開されていないので、こんな雰囲気なのだそうです。写真左は阿弥陀堂、慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建されたとされる建物です。右は方丈、この建物奥に先程説明した庭園があるようです。
庫裡を通り過ぎて石畳の坂を下りると墓地へと続く参道がありました。その前には「会津墓地参道」と刻まれた石碑と「江(ごう)供養塔」の看板が掲げられていたので、それを目指して歩くことにしました。
江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の正室であった江(ごう)の供養塔です。確か江の墓は、東京増上寺にあったと思います。こちらは、遺髪が埋葬されているとのことでした。
次は、会津墓地へと進むことにします。見ての通り、急な石段で登るのもシンドイ状態となってきました。石段の頂上部には三重塔が見えています。あそこまで登ると思うとかなり体力を消耗しそうな感じです。
幸い途中から横道に入って、緩い坂を上ると会津藩殉難者墓地に辿り着きました。文久2年に京都の治安を治めるために、京都守護職として入洛した会津藩主松平容保は、多くの藩士を引連れてきました。その中で病死したり、禁門の変や鳥羽伏見の戦いなどで戦死した藩士が祀られているとのことでした。
墓地から引き返す際、同じ高さのところに三重塔が見えてきたので、そちらの方に進みました。この建物は、徳川秀忠公の菩提を弔うために建立されたもので、塔内には、現在御影堂で安置されている中山文殊像が、かつては安置されていたとのことです。現在国重要文化財に指定されているとのことでした。
三重塔から京都市内を撮影してみました。時間の経過とともに上空が雲に覆われて、どうもスッキリしないので良く解りませんが、京都市内がクッキリと拝見できる地点でした。なお、金戒光明寺から隣接する聖護院一帯は、京野菜で有名な聖護院大根の発祥の地だとのことです。
金戒光明寺参観を終えて、途中の小路でタクシーに乗車しました。午前11時を過ぎていたので、昼食場所に移動することにしました。この日は、おかみ様が、親しくしている皆さんと東京新橋、金沢茶屋街、博多券番と京都五花街の芸舞妓が集って踊りを披露する「八花絢爛」がロームシアター京都で開催されるので、その見物のため京都に来ています。本日のゲスト進行は中村勘九郎さんだそうです。水郷は、見物はせずに途中で分かれてまち歩きを行うため、ちゃっかりと付いてきました。(^^;。。少し早めに別行動で蟹江を出発してきています。皆さんと集合して会食する場所が、京料理の老舗六盛さんです。創業は明治32年、京料理一筋の名店です。
午前11時半に、皆さんと一緒に昼食をいただくことにしました。写真の六盛名代の「手をけ弁当」をいただきました。人間国宝中川清司作の器に映える旬の極みの数々、季節のかわり御飯(今回は貝柱御飯)と赤出しを添えたもので、とても上品な感じがして美味しいお弁当でした。ただ、京都と言えば京味噌(白味噌)と思っていたので、赤出しは、意外でしたよ。
昼食を済ませて、ここから水郷一人でのまち歩きを行うことにしました。写真は六盛を出て岡崎公園方面に進む際に見えてくるのは琵琶湖疎水の流れ、明治に入り京都の生活用水の確保や産業振興のために作られた用水路です。
暫く歩いて辿り着いたのは、冒頭でも紹介させていただきました平安神宮です。写真の門は、かつて御所(朝堂院)の応天門を模したものだそうです。
門を通り境内へと進みました。正面に見えるのは大極殿を模した外拝殿です。数年前、秋の京都御所一般拝観の際、この神社にも参拝に出かけています。
明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念して、遷都を行った第50代桓武天皇を祀る神社として創建されました。昭和15年(1940)、平安京で過ごした最後の天皇である第151代孝明天皇が祭神に加えられています。ですから、平安京の最初と最後の天皇が祀られているなど京都の歴史に大きな関わりのある神社です。
参拝を済ませてから、哲学の道に入るため東へと歩いて行きました。途中で見かけたのは岡崎神社の鳥居、この地の鎮守様なのでしょうか。まだ寒中ですが、2週間ほどで節分ですね。その案内看板が掲示されていましたよ。
進む方向が良く解らなくなって来ていますが、兎に角、東へと歩くことにしました。丸太町通と白川通の交差点に老舗の料亭のような建物がありました。後で調べたら「岡崎つる屋」さんだそうです。明治41年、大阪で創業、昭和天皇即位の大礼の際、この地に開店した歴史を有する老舗料亭でした。エリザベス女王の訪日の際にも食事・宿泊のため立ち寄ったとのことです。外から眺めても、庭がとても素敵な感じでしたよ。おかみ様は、一度入って食事したことがあるとのことでした。
途中から迷路状態の道を訳も解らずに進んでいます。道路看板を見たら鹿ケ谷という表示がありました。そう言えば、平安末期に平清盛の横暴に怒った後白河法皇や側近が平家打倒の密議を図ったことで有名な地ですね。京野菜の鹿ケ谷カボチャもこの地で栽培されているのでしょうね。鹿ケ谷山荘も、この一帯あるのでしょう。でも、この界隈は、初めて徒歩で訪れているので、サッパリと解りませんよ。ようやく山裾に土手のようなものを発見して、石段を登ったところで「哲学の道」に辿り着くことができました。写真左は南禅寺方面、右は銀閣寺方面、約30年前には銀閣寺から南禅寺まで「哲学の道」を走破した経験があります。哲学の道の由来は、日本を代表する哲学者西田幾太郎や田辺元らが、この小道をよく散策したことに因んで名づけられたそうです。
今回は、この地点から銀閣寺を目指して歩くことにしました。琵琶湖疎水に沿って哲学の道を北上することにしました。ひっそりとした感じがあるようですが、実は結構人通りは多いです。あまり歩いている人を写真撮影するのもなんですし、なるべく人通りの少ない地点で撮影を行っていきましたよ。外国人旅行客の方々も散策を楽しんでみえるようでした。
途中には名刹や史跡が多いです。写真は第63代冷泉天皇の陵です。冷泉帝は摂関家藤原氏とは縁戚が無く即位した天皇で摂関家と対立・刺激し、その専制に抗したことでも有名な天皇ですね。
こちらの古い建物は、油とり紙の老舗の「よーじや」銀閣寺店、純和風の喫茶店も併設されていました。あと法然院などの古刹もありました。
哲学の道を北に進んで、何とか銀閣寺参道に到着しました。もう歩き疲れて膝が笑っています。(^^;。。20代で哲学の道を走破した時とは、体力の差が大きすぎますよね。今更ながら気が付いてしまいましたよ。参道沿いには、いろんなお店が並んで賑わっています。外国人旅行客の方も多く訪れているようです。
銀閣寺は、約10年前に訪れたことがあります。その際は、カメラやデジカメを持参していなかったので、撮影を行うことができませんでしたので、今回は銀閣を始め庭園などもシッカリと撮影したいものです。まずは、拝観の受付を行うために参道を進むことにしました。このことについては、次回に紹介させていただきます。
銀閣寺の参観を終えてからバスに乗車し金閣寺に出かけました。こちらも凄い賑わいでしたよ。
更にバスに乗車して、北野天満宮にも参拝を行ってきました。北野天満宮と言えば梅の名所として有名ですね。寒中ですが、暖冬の影響もあって所々ですが早くも梅が開花していましたよ。
今回のまち歩きで初めて嵐電に乗車してきました。プチ鉄水郷、これも良い体験だったと思います。真冬の京都まち歩き編は、まだまだ続きます。お楽しみに。。