8月も月末、アッと言う間にリオ五輪も終了してしまいましたね。日本選手大活躍で終了した閉会式での次期開催地「東京五輪」宣伝活動は国内外で概ね大好評のようで、これからが楽しみなところです。さて、今月初めからちょいと忙しくblog更新も滞ってしまいました。写真は地元蟹江町須成地区で受け継がれてきた夏祭「須成宵祭」、8月第1土曜日に執り行われました。水郷地帯にふさわしい疫病退散と五穀豊穣を祈願する天王信仰に由来する祭行事で、約400年ほどの歴史を有する優雅な川祭です。
- 蟹江散策
まだ立秋前の一番暑く感じる時期でした。宵祭は正午の「みそぎ」から始まるのですが、この暑さのため見物は諦め、午後2時から行われる「天王詣り」の見物に出かけることにしました。映像は「祭宿」とされている須成区公民館前の御葭橋南岸に係留されている巻藁船、祭本番を控えて飾り付け作業が進められていました。
須成区公民館から須成神社境内と移動しましたが、まだまだ境内では祭準備で忙しくされているので天王詣り一行が通過する区中央道路沿いの日陰部分で待機することにしました。午後2時過ぎに区公民館を出発した稚児一行が、こちらへと向かってきました。
天王詣りの様子は画像のとおりです。かつては涼しくなりつつある午後3時に行われていた「天王詣り」、会場・交通警備を管轄する蟹江警察署からの強い要望で宵祭終了時間を約30分ほど短縮したので、宵祭行事自体が前倒しされ、一番暑い午後2時からの「天王詣り」、これは稚児一行にも堪えるような感じでした。この暑さの中、大変だなと思います。
天王詣りを見物後、我が家へと引き反し昼寝タイム、約1時間ほど休憩後、午後6時過ぎに出かけることにしました。この日は、祭見物にお越しの来賓の方々への案内・説明役を仰せつかって集合場所まで出かけ、その後一行を案内がてら須成神社境内まで進んできました。既に神社及び隣接する龍照院境内は祭見物の方々で賑わっていましたよ。露店も多く出店して良い香りが漂っていましたよ。
祭見分を盛り上げるような響きが伝わってきました。映像は地元須成鼓笛保存会の方々による神子太鼓が奉納されていました。須成祭囃子・神子太鼓を伝承するために結成されている保存会です。我が息子君も幼稚園年中組から保存会に参加させていただき祭太鼓や囃子の練習を行ってきました。この他、地元須西小学校でも部活「郷土芸能クラブ」として神子太鼓などの伝承を行って、地域の伝統文化を後世へと伝えようとする試みがなされているとのことです。
来賓皆さんを案内しつつ須成区公民館に到着しました。午後7時を過ぎて、ちょうど祭囃子が奏上されているところでした。今年は息子君が、祭役衆の笛吹を仰せつかって笛を奏でているところでした。公民館で祭囃子を一曲奏上後、稚児と諸役は蟹江川堤防(左岸)を下流方向にある飾橋まで行列し、橋北で待機している巻藁船に乗り込みます。
水郷一行は、区公民館の桟敷席に上がり、水郷は担当の須成祭の起源などを説明させていただきました。途中で関係の無い戦国蟹江城合戦の質問などもあり冷汗をかく場面もありましたよ。でもよく考えると地元に伝わる伝承などを考慮すると戦国時代も関わってくることもありますからね。須成祭の起源は定かではありません。地元の伝承によれば、昔のこの地方の若者が雨の日の深夜芋の葉をかぶって、津島神社の御神葭様をお迎えしたことに始まるようです。織田信長や豊臣秀吉、尾張徳川家も尊崇し、保護してきたとのことです。天文17年、織田信長が社殿修復の際、「夏六(月)の祭典退転これなく様に致すべく」と戒めているとのことです。
桟敷席での解説を終えてここからは来賓の皆様にジックリと祭見物を楽しんでいただくことにしました。当然、水郷もこれ以降はフリーハンドとなるので、スマホで祭の進み具合を写真や映像で記録することにしました。午後7時30分に川下の飾橋を祭衆を乗せて出船した巻藁船が御葭橋に近付いてきました。
宵祭の一番の見所、跳ね橋「御葭橋」周辺での花火、そして巻藁船、やはり祭見物や写真撮影を行っている方々で大賑わいの状態でしたよ。
夏祭と花火、良くマッチしますよね。とても優雅な川祭り、約400年間、地区で受け継がれてきた伝統文化の煌びやかを実感させる一瞬でもありました。
須成祭が地元の祭であることを実感させられる仕掛け花火でした。実はこの須成祭、現在文化庁がユネスコに推薦した日本文化を代表する「山、鉾、屋台行事」33件の無形文化遺産登録に提案中の由緒ある祭事の一つなんですよ。
結果は今年11月下旬から12月上旬にエチオピアで開催されるユネスコ会議で決定されるとのことです。そのプレイベントの意味もあって蟹江町住民を始め大いに盛り上がっているようです。花火が終わるにしたがい、巻藁船が動きだし、跳ね橋「御葭橋」を通過しようとする場面を迎えました。祭囃子も後半部分が奏でられています。
橋脚部分が巻藁船通過ちょうどの間隔しか無いので、船の操作がなかなか難しいです。須成祭の起源、いつ始まったか定かではないと説明させていただきましたが、車楽船の行事が今の形態のようになった時代はいつなのか。。江戸時代、尾張藩が宝暦5年に藩内の祭礼を記録した『尾陽村々祭礼集』には「冨吉天王之祭、祭船一輌、打囃子試楽有、村下橋より天王橋迄渡」と記され現在同様の祭形態となっているようです。宝暦と言えば、9代将軍徳川家重の治政で薩摩藩の木曽三川治水事業が行われ、大岡越前や今話題の画家伊藤若冲が没した時代ですね。
巻藁船は祭囃子後半部分を奏でながら御葭橋を通過していきました。明治時代に増補された『尾張名所図会・付録』の『小治田之真清水』には須成宵祭の賑やかな祭風景がなどが描かれいます。いずれにしても江戸時代後期から現在に至る車楽船行事は行われていたようですね。さて、御葭橋を通過する際、巻藁船は横幅が広くて少し橋に接触したようです。
それでも無事に水郷が陣取る桟敷前を通過していきました。橋を通過した瞬間、周辺からは大きな拍手が沸き上がりましたよ。祭船が通過するために年に2度しか跳ね上がらない御葭橋、跳ね橋と言えば、漁船とか運搬船が通過するなど経済的な理由から設けられている場合が多いのですが、祭を執り行うためにわざわざ架橋されてたとは何とも贅沢な橋ですね。まさに地域のオンリーワン&パワースポット的な存在、それほど地区民の須成祭に対する想いの重さを実感させられました。
巻藁船が通過後、見物の方々も祭船を追いかけるように川上の天王橋方向へと移動されて行きました。午後9時半過ぎに祭は無事終了し、この日の水郷も役目を終えて我が家へと帰りました。
翌日は朝祭、巻藁船が出て、花火が披露される優雅で余興のある宵祭に対して、朝祭は、須成祭の諸行事の日程が定められる基準となる本祭です。この日の水郷は、地元CATV祭実況中継の解説を依頼されました。写真はリハ後の自撮りしたものです。笑顔ですがちょいと緊張気味でした。
区公民館前から一歩も移動できないですし、性格上解説に熱中してしまいますから、朝祭の写真はこれ一枚だけとなってしまいました。当日はハイキングが開催されて、多くの方が朝祭の車楽船を見物されていましたよ。
朝祭の翌日、早朝の午前5時から神葭流しの行事が執り行われます。祭期間中ご神体となって社殿に安置されていた葭束を蟹江川まで運びだし十文字に組み、その中心に1年間の災厄を託した御束を差し立て川に浮かべるのですが、水郷が出かけた時間は午前6時半過ぎで諸行事は全て終了していました。
ちょいと残念でしたが、前日までの優雅さとは正反対の素朴で質素な感じで感動物でした。神葭は、この7日後に「棚上り」で川から引き揚げられ、神社境内に設けられた葭棚に遷され、灯明や供え物をあげて祀られます。これ以後、「御神葭様詣り」といって約75日間須成地区の方々が班単位に期間を割り振って毎日参拝されるようです。75日後には「棚下し」が行われて御神葭様を棚から下ろして境内で燃やし、稚児定めから棚下しまでの約100日間、長きにわたる行事が終了します。須成祭は「須成祭の車楽船行事と神葭流し」として国重要無形民俗文化財の指定を受けていますが、別名「須成100日祭」と称され、まだまだいろんな行事が執り行われていきます。